考えるというのはときにしんどい作業でもある
ジャニーズの性加害問題が出始めてから私はずっと人権について考えている。
前提としてハラスメントや虐待は決して許されるべきではないという思いを持っているということをここに明言しておく。
では早速
人権とはなんぞやという話。
論じるにはまず言葉の意味を知ることが必要不可欠だ。
人権 とは
人間が人間として生まれながらに持っている権利
実定法上の権利のように恣意的に剥奪または制限されない
ー広辞苑無料検索より
続いて、法律。
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
そして人権を世界視点で見るには欠かせないもの。初めて国際的に人権の保証についてうたわれた世界人権宣言を。これはあくまで宣言だから法的拘束力はない。
世界人権宣言
ここで私が注目したいのは第十一条の1だ。
"自己の弁護に必要なすべての保障を与えられた公開の裁判において法律に従って有罪の立証があるまでは、無罪と推定される権利を有する。"とある。
ここを読んで私が疑問に感じたことは、ジャニーズ騒動は法律に従っている(犯罪/有罪と言える根拠は何)か?ということだ。
被害に遭われた方の声だけを聞いていれば「(加害が)あった」と受け取るのは自然なことである。
今回の場合、故人は何も言えないし、たとえ他の事象でもやってない人はやってないとしか言いようがない。やってないことの証明ほどむずかしいものはない(だから冤罪が起きる)。
ハラスメントは許されないという前提はあるが、司法では裁かれていないのに、当人のことをほとんど何も知らない(昔から噂はあったよねと噂しか知らない)赤の他人が「これは犯罪だ!」と叫び、その声(世論)が集まって犯罪者扱いすることのほうが人権侵害ではないだろうか?
現在ハラスメントで苦しんでいる方がいて、その多くは声を上げられないと思う。その一方で、今回の訴え方を認めたことは、実際に苦しい思いをしながら裁判をしている方にとって救われない気持ちになっただろうなとも思っている。
人権に正義はあっても正解はないし、私には誰かの正義を否定する権利もない。しかし、これからの日本にとって、お金や地位や権力を使って要求すれば補償してもらえる(言ったもん勝ち)社会か、お金は必要かもしれないけど地位や権力がなくても司法の場で闘った結果で有罪と下され補償してもらえる社会か、どちらがベターなのかを考えることこそが(広義的に)人権と向き合うことに繋がるのではないだろうか。
私の中でこのような考えに至った。
無論これは、ジャニーズ性加害問題に限らずどんな事象にも当てはめて考えている。
日本人は人権に対して意識が低いと世界から言われるし実際そうだろうなと自分自身も感じている。
児童虐待防止法の改正が必要ならば、この件だけでなく、他の一般的なケースをいくつも見て総合的に必要なことは何かを見極め、国レベルへ押し上げるのが本筋であろう。ということも付け加えておく。
人権こそ皆等しくあるべきだから。